死生観とは何なのか。日本人の死生観の歴史とその真実の意味とは

こんにちは。

催眠を心理学で科学する「催眠心理学」

神戸ヒプノセラピー、催眠療法ベレッツアです。

 

さて、死生観とは何なのでしょうか。

人のこころのあり方や考え方、認識はその前の時代から受け継がれてきた伝統に強く影響を受けます。

 

特に、死や生に関係するものは、人のこころの奥深くに根付いていて、過去の様々な体験を通して作り上げていくものだから、現代に生きるあなたも過去の影響を知らないうちに受けています。

それでは、日本人の死生観の歴史を見ていきながら、死生観に隠された真実の意味について話していきましょう。

 

死生観とは何なのか

いきなり答えになってしまいますが、死生観とは生と死とに対する考え方

死を観ることによって、自分の生を見つめなおし、そして、生き方の指針を得ることが死生観を持つということ。

 

日本人は、死をタブー化することで、「死ぬ」という現実から逃避してきましたが、地震や台風、病気や戦争で「死」が実は身近にあることに気づき始めています。

生きているからこそ存在する死。その死についてあなたの考えを持つことが、死生観を持つことなのです。

 

一般的に暗いイメージになりがちな「死生観」、今までの歴史を作ってきた人々がそのイメージを創り出し、「死」=「タブー」の風潮をも生み出してきました。

このような、死生観の隠された歴史と、死をタブー化し隠さなければならなかったその意味について、次に見ていくことにしましょう。 

 

死生観の歴史と隠された意味

死生観の歴史は、近代以前、明治から昭和、そして、現代の3つの時代に分けることができます。

そしてそのそれぞれの時代ごとに異なった死生観が存在し、その時代の死生観が生まれてきた背景と、その意味が見えてきます。

 

それでは、早速その時代ごとの死生観を見ていくことにしましょう。

 

近代以前

近代以前の日本の死生観については、大きく4つの視点から考えてみるとわかりやすくなります。

その4つの視点とは、日本の自然条件、宗教的背景、武士道、文学や芸術の4つ。

 

近代以前の死生観を、この4つの角度から見ていくことで、先祖から伝わってあなたの心の中にある死と生に対する根源的なものにアプローチできるようになります。

それでは、まず、日本の自然条件から見ていきましょう。

 

日本の自然条件

日本の自然条件を創り出しているのは、その位置にあります。日本がある地理的な位置は、モンスーン地帯であり、日商と降水量に恵まれ、多くの作物が実りやすい土地柄。

しかし、その反面、台風や地震など大きな自然災害も他の地域に類を見ないほどひどい爪あとを残します。

 

穏やかな日常の後に突然やってくる巨大な自然災害。これは、日本人の生活指向に大きな影響を与えてきました。

天才は突然やってきてとても大きな被害を残しますが、すぐに過ぎ去って何事もなかったかのようなのどかな日々が戻ってきます。

 

これは、母親の存在と似ており、とても優しく慈愛に満ちた一面を持っていながら、鬼子母神のような恐るべき反面を持っている。

近代以前では、防災の意識を持っていながらも、計画的な備えでは防ぎきれない自然の猛威をも受け入れていました。

 

そして、その当時の日本人のこころの中に、運命を甘受する受動性、過ぎたことは水に流して忘れることができるあきらめの良さを生み出します

また、一夜明ければ再び前向きに歩き出すことができる楽天的な勤勉さも、このような自然災害によって生み出されたのでしょう。

 

この自然災害が、日本の社会そのものを防災共同体として成長させてきました。

そして人々の心の中に、無常観、現世を忌避して来世を待ち望む性格を植え付けてきたのです。

 

このような心情を持ち合わせた日本人の中にもたらされたものが自然風土を神とする「神道」とそこに持ち込まれた「仏教」。

次に、それら宗教的な背景による当時の日本人のこころの移り変わりを見てみましょう。

 

宗教的背景

近代の宗教的な背景を見ていくと、日本に大きく影響したものとして、仏教と神道、そして固有信仰があります。これは、神や仏と神仏を混合して読んでいるところからも、画一化された宗教観がないことを表しているでしょう。

元々、神道は、古来の民族や文化の中で徐々に発生した自然宗教。

 

だから、神道には明確な教義や経典はありません。文化や習慣、生活の一部として存在していたのです。

そして、祖先の霊や自然の物、自然現象を神とし、八百万の神として神羅万象のすべてに神が宿るとされてきました。

 

そんな中、6世紀ごろから仏教が中国からつたえられます。

この時の仏教は、国家を治め守ることに重点が置かれ、災厄を鎮め、安定と繁栄をもたらすものとして扱われました。

 

この仏教により、「諸行無常」という考え方、今のわざわいや幸福は前世の行いによって決まるとされる「因果応報」の考え方が生まれてきます。

続く疫病や災害の中に世の中の無常を観ながらも、執着を捨てて悟りに達することを願うことが受け入れられてきました。

 

仏教には、浄土宗や浄土真宗、時宗や法華宗など、念仏を唱えていれば誰でも救われるという他力本願的な考えも受け入れられています。

 

神仏習合という言葉があります。これは、仏様が民衆を救うために仮の姿となったのが日本の神々であるとする本地垂迹説に代表される考え方。

つまり、古来から伝わる自然宗教である神道と中国から渡ってきた仏教が日本人の柔軟性のある受動性やあきらめの良さと相まって、神仏混合が行われてきたのです。

 

この時仏教が民衆の間でも爆発的に広まったのは、神道的な考え方が民衆の心のうちにあったから。

新年には神社に初詣、結婚式は教会で、死ぬときはお寺で葬式、という考えは欧米にはありません。日本独特な文化スタイルが生み出したものでしょう。

 

武士道

さて、死生観に大きく影響を与えたものの一つに、武士道があります。

日本の武士道は、欧米の騎士道と似てはいますが、違いも多く同じものではありません。

 

ここで武士道の歴史を振り返ってみると、その800年続いた武士道の歴史の中でも、大きく変化してきたことがわかります。

元々、鎌倉時代に発生した武士の主従関係はヨーロッパの封建制度と同じで、土地の領主に封じるから臣下としての務めを果たしてもらうという側面が強くありました。

 

しかし、戦国時代を経て江戸時代になると、将軍を頂点とした幕藩体制という組織が作り出され、家臣は主君に絶対的な忠誠を求められるようになったのです。

そのために活用されたのが儒教

 

儒教は、紀元前5世紀ごろ孔子が作り上げたものですが、江戸幕府が利用したのは、朱子学の影響を受けた大義名分論でした。

そして、士農工商それぞれの階級に応じたモラルが求められ、特に武士は自己犠牲をいとわない武士の死生観を普遍的な価値を持つものとしてきたのです。

 

1710年代に佐賀藩の山本常朝が書き残した「葉隠(はがくれ)」の冒頭に「武士道といふは、死ぬことと見つけたり」という言葉も有名ですよね。

死が常に身近にあることをわきまえて、常日頃から、死に備えておくことを進めています。

 

余談ですが、ラテン語には「memento mori」ということわざがあります。

この意味は「死を思え」とか「汝、死すべきものであることを覚えよ」ですが、武士道と似ていると思いませんか?

 

さて、武士は戦場で死ぬことを覚悟しており、平和な時でも責任を取るときには、その日のうちに切腹させられることもありました。

切腹は欧米人から見るととても奇怪な行動のようですが、新渡戸稲造が言っているように「自らの誠実さを示すための儀式」とし、古代ギリシアやローマの哲学者の自死と同じだと説明しています。

 

武士道は明治維新によって身分制度が解体された後も、軍人と天皇という図式に置き換えられて継承されていきます。

そのため、軍人に限らず、日本人としての死生観のよりどころとなりました。

 

文学や芸術

日本の文学の歴史はとても古く、8世紀ころの万葉集や古事記、日本書紀をはじめ中世の軍記物語、金瀬の俳諧や浮世草子などを経て現在につながっています。

これらの文学、方丈記や平家物語は日本人の死生観に大きな影響を与えました

 

困難な状況を通して死生観を作り上げながら生き延びる道を見つけようとしている人々の姿が描かれています。

人の死と隣り合わせの生を描くことで、死生観の形成を助けているのでしょう。

 

最近では、音楽や映画、漫画などがこの役割をはたしていることもあります。

日本の文学や芸術を死生観の観点から振り返ってみると、新しい発見があるかもしれません。

 

明治から昭和

江戸時代の日本人の死生観は、長期の政治の安定によって死生観も安定します。

ですが、明治維新によって社会が大きく変わっていったため、日本人の精神的な活動にも大きな変化が起こります。その様子を見ていきましょう。

 

日本人の精神生活の過渡期

この明治初期には門戸開放という長い間の鎖国から解放されたため、日本人の精神生活に欧米の様々な思想が流れ込みました。

死生観の観点では、仏教や神道と違った世界観があるキリスト教や自然科学に裏付けられた近代的な合理主義が大きいでしょう。

 

キリスト教の影響

キリスト教は、江戸時代初期にカトリックが急速に社会に浸透したのですが、幕府の弾圧により、根絶されました。

ですが、明治維新の後、アメリカを拠点とするプロテスタントの諸教派が活発に伝道を行います

 

仏教が江戸時代の寺請制度を通して布教の熱を統治機構に奪われていました。

ですが、キリスト教宣教師はその精力的な伝道や社会活動を通じて、神の前に個人として在るという信仰を伝えて、当時の人々を魅了していったのです。

 

近代合理主義の影響

近代的な科学技術と合理主義的なものの見方も当時の日本人に大きな影響を与えます。

人権思想や進歩的な政治思想、社会謝儀と共産主義と無政府主義、その上、無神論的な世界観などが一気に流入してきたため、今までの価値観や考え方を根本から変える必要に迫られたのです。

 

そして、この流れに触発されて日本の伝統的な思想を再び見直す動きが起きたため、日本の精神世界はとても活発に動き始めます。

同時にこの時代は今まで禁じられていたものがうって変わって認められるようになり、一気に流れ込んできました。そのため、自己のアイデンティティを再び作り上げることが必要になる時代。

 

第二次世界大戦後の変革期と同じように、明治維新後の日本は、精神世界の過渡期にあったのです。

1977年に出版された加藤周一らが書いた「日本人の死生観」という本があります。

 

この本では、過渡期としての日本の近代化に注目し、葛藤し、悩みながら生き抜いた6人の人物についてその死生観を観ることができます。

時代を象徴する人物の生き方に注目してみると、その時代の死生観を知ることができるので格好の資料になります。

 

この本で紹介されている6人とは、陸軍大将乃木希典、陸軍軍医かつ文学者の森鴎外、思想家の中江兆民、経済学者の河上肇、文学者の正宗白鳥、文学者の三島由紀夫。

これら6人の立場は異なりますが、押し寄せる先進的なものと、伝統的なものとの間で日本人としてのアイデンティティを作り上げることに苦闘したところは同じです。

 

死生観について考えることは、自己のアイデンティティを確認する作業との関係がとても深い。

この6人の多彩さが精神世界の過渡期を渡ってきた日本人を表しているでしょう。

 

死生観

 

死生観を考えるにあたって、死生学という学問があります。

この死生学とは英語でthanatology。日本語に訳すと死(thanatos)についての学問(-logy)。

 

死を通して生を考えることが死生観のありようであり、死生学の本当の意味なので、生の字が必要とするのは間違っていないでしょう。

ですが、中国や台湾、韓国など東アジアにおいては、死生学を「生死学」といっています。ちょっと日本の死生学と受け取る感じ方が変わってきますよね。

 

死生観という言葉が使われるようになったのは、1904年~05年の日露戦争あたりからと宗教学者の島薗進が説いています。

仏教には、「生死」という言葉があります。読み方は、しょうじ。せいしではありません。

 

この仏教の生死とは、生あるもののこの世における存在の初めと終わりである生と死を意味するものの、迷いの世界で生まれ変わり死に変わりすることという「輪廻」の意味もあります。

ですので、この生死とは違った立場から、生と死を考えようという流れが起こり、死生観が生まれたのです。

 

そして、加藤拙堂の「死生観」(1904年)という本の発刊や講演活動を通じて当時の人々に広まって行ったと考えられています。

この加藤拙堂という人は仏教を中心としたいろいろな宗教について幅広い知識を持った作家、講演家です。

 

特に武士道や禅、実践を重視する陽明学中心の儒教の影響が強く、教育勅語の熱烈な支持者でもありました。

「来世をあてにするような死生観ではなく、宇宙的な実在に帰一することで、泰然自若として死につくというような死生観」が日本人の真骨頂であり、これが武士道によく表れていると加藤拙堂は考えたのです。

 

加藤拙堂だけでなく、日本人の死生観のよりどころとして武士道をあげる人は少なくありません。

新渡戸稲造のようなキリスト教信者の中にも同じ考えが広まっていたことも重要な事実でしょう。

 

多彩な日本人の死生観は、戦争によって生まれ、戦争によって集約された

この時期、日本は外国との戦争が続いており、新しい国民的な道徳を創り出して実践しようとする修養主義が生まれました。

そして、日本には欧米のキリスト教のように宗教的で道徳的な伝統がなかったので、死生観を創り出す土壌になったと言えるでしょう。

 

この時期に活躍した志賀直哉も死生観を扱う作品の多い作家。

「城之崎にて」から「暗夜行路」までの作品群は、死生観を書いた小説です。

 

また、小説とはちょっと違う方面から死生観にアプローチした人もいます。

それは、民俗学的な研究を通して日本人の固有信仰と伝統的な死生観を明らかにしようとした柳田國男や折口信夫。

 

今まで行われてきた祖先の祭りを通して、死後の霊魂の存続と先祖から子孫への連続性を確認する。

そうすることで民衆の死生観が作られていたというのです。

 

このように明治維新後、多面的に発散していた死生観は、昭和に入って戦争の気配が強くなっていくと、国家権力を強化する方向に集約されていきます。

共産主義の排除を目的として成立した治安維持法が、反政府的な言動や思想を厳しく取り締まっていきました。

 

人々はこころや信念の自由を厳しく制限され、「国民は国家のために進んでその身をささげるべきである」ということが国民の道徳として一般化されていくのです。

1931年の満州事変、1932年の五・一五事件を経て全体主義と戦時体制が進み、この傾向が強まっていきます。

 

「悠久の大義に生き、死をみること帰するが如し」という達観が武士道の神髄と加藤拙堂が強調していたところを、あえて戦争に行くときの戦闘意欲を鼓舞するために利用されました。

国策を遂行することが大義であり、これを疑う者は、非国民とされます。

 

現人神としての天皇を頂点として国家神道を日本の公式なイデオロギーとし、反する宗教は厳しく弾圧していました。

個人の内面的な決断としての死生観も、この時期は国策として利用され、国から強要されるようになったのです。

 

この時代の民衆の心の叫びは、「聞け、わだつみの声」などに色濃く残されています。

 

戦後に起こった戦前の反動

日中戦争から第二次世界大戦にかけての戦争は、日本人だけで300万人を超える死者と無数の負傷者を生み出しました

そして、日本は、全面的な敗北、無条件降伏の道をたどります。

 

この後には、国土の荒廃と深い心の傷がのこり、その状況は日本人の死生観にも影響を与えます。

GHQの主導により、軍国主義の復活につながる懸念のあるものは徹底的に排除されます。

 

それまでの価値観の押し付けやこころの内面の禁圧が解かれ、日本の人々は自由な立場から人の生と死について考えることができるようになったのですが、現実にはこれと逆行する方向に進みます。

実際には、戦後の日本では、死について考えることや死生観について論じること自体をタブー視し忌避して回避する傾向が強くなっていったのです。

 

これには理由があって改革を行ったGHQをはじめとする欧米の民主主義の背景には、キリスト教的な宗教理念と死生観があります。

ですが、民主主義と一緒にキリスト教的な死生観まで受け入れた人はごく少数。

 

敗戦後の日本には伝統的な死生観に対する反発と疑いが生まれ、今までの死生観が破壊されました。

だから、日本全体として死生観に関する空白状態が生まれたのです。

 

心理学者の河合隼雄の言葉に次のようなものがあります。

もともと日本人は死ぬことばかり考えてきた。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉もあった。戦争中は死ぬことばかり考える悪い時代の典型。戦後はその反動で、生きるほうへ振れた。日本人はますます伝統を忘れ、死を考えない珍しい時代が続いた。(日本経済新聞1996年6月22日)

 

敗戦後の日本の混乱と停滞は、1950年に起きた朝鮮戦争をきっかけに変化し、高度経済成長期に入ります。

この時期は、河合隼雄のいう、「伝統を忘れ、死を考えない珍しい時代」。

 

この時代を支えた団塊の世代について、次のような話があります。

団塊の世代は戦争直後の物質欠乏の感覚を持ちつつ、経済成長ゴールにした圧倒的な「欧米志向」のもと、突っ走ってきました。

この時、日本的なものや伝統的なものに対しては否定的な感覚を持っています。

 

死とは要するに「無」であり、死についてそれ以上あれこれ考えても意味のないことです。

ともかく生の充実を図ることがすべてなのだ。という意識で生きてきました。

 

強い喪失体験の後、気分が沈むのではなく逆に高揚し過剰なほど活動的になる現象「躁的防衛」というものが心理学の領域で知られています。

喪失体験を克服しようとするこころの代償作用が躁的防衛です。

 

ですが、ときおりその躁的防衛が行き過ぎて現実の認識を誤って適応を破綻させることも知られています。

河合隼雄や広井良典らの心理学者が指摘している戦後の日本人のこころの在り方は、集団レベルでの躁的防衛。

 

日本の初等教育における死生観の視点は長らく欠落した状況にありました。

このように、この時代の子供に人の命や死について考えさせなかったため、20世紀後半には若年者による凶悪犯罪が多く発生したとされています。

 

敗戦を経験したからこその死生観

もちろん、死生観は個人差も大きいものですので、戦後の日本人に「戦争の犠牲になった家族や仲間のためにもより良く真摯に生きなければいけない。」と素朴で素直な死生観を持った人も少なくありません。

戦争体験を伝える活動をしている個人や団体も多くあります。

 

また、戦艦大和ノ最後(吉田満)や野火(大岡昇平)など、戦争が投げかける生死の問題をテーマにした文学作品もあります。

戦争で奪われた数えきれない人命に対する鎮魂のこころが戦後の日本の平和主義を支えてきたことも確かなことなのです。

 

現代

戦後、躁的防衛等により死についてタブー視される時代が続いてきたのですが、現代に入りその様相が変化してきます。

それは、死生観を持つことについて人々がその必要性を感じるようになってきたことが大きな要因。

 

死生観が見直されてきた背景には、高度成長が止まり、高齢化社会になって人の生死と向き合う場面が多くなったからとも言えます。

その見直されてきた死生観について医療現場、バブル崩壊、スピリチュアルの観点から見ていきましょう。

 

医療現場における変化

高度成長に陰りが見え始め、生活の質や人生の意味に関心が向けられるようになってきた現代。

死生観に対する関心について、初期に変化が現れた始めたのは、医療現場でした。

 

淀川キリスト教病院がホスピスの発祥となったように、医療現場が死生観を作る発信源となったのです。

その初期に変化の要因となったのは悪性腫瘍(がん)の告知をどうするかという問題。

 

1980年代まではがん告知をしないことが当たり前。胃がんでも本人には胃潰瘍として説明して手術されていたのです。

家族にはがんであることを伝えられ、本人に伝えるかどうかは家族任せにされており、実際に伝えられた家族は一握りでした。

 

本人に告知しないことで問題があったのですが、日本人は自分自身の死に対する準備ができていないから本人に余命の宣告はしてはならないとされていたのです。

ですが、インフォームドコンセントが徐々に浸透し、21世紀にはいると本人にすべてを説明することが常識になりました。

 

このころからがんが死亡原因のトップとなり、3人に1人ががんで死ぬようになります。

この結果、多くの日本人ががんの宣告を通して自分の死について直面せざるを得なくなりました。

 

心臓病や脳血管疾患も死亡に直結する慢性疾患。

高齢化していく社会に暮らしていると、その生活のなかでも、日々体が弱っていくことを実感します。

 

つまり、「老・病・死」にどう向き合うかということが急速に問題になって来たのです。

若い人も、脳死に関連して、ドナーカードの普及により、死を考えるようになってきているのも死生観の育成に一役買っています。

 

バブル経済の崩壊

バブル経済が崩壊したことによって高度経済成長が決定的に終わりを告げたのが1992年。

このバブル経済が崩壊して、終身雇用制度が合わせて崩壊していきます。

 

大規模なリストラ、非正規雇用の増大、成果主義の導入により職場環境が大きく変化しました。

これまでの職場は収入を得て技術を身につける場所であり、働く人の帰属する場所であって疑似的な共同体。

 

ですが、バブルの崩壊によって、勤労者がよりどころとしていた会社という共同体も崩壊してしまったのです。

そして、同時に多くの人のアイデンティティとメンタルヘルスに大きな危機感を生みだすことになります。

 

この裏付けとしてあげられるのが、それまで年間2万人台だった自殺者が3万人台に膨れ上がっていること。

失業率と自殺者数が連動することや失業率の増加の背景が勤務環境の変化にあること、中高年男性の自殺者が多いことを考えると、明らかです。

 

このような世相を反映して、死と真摯に向き合って人生の終わりについて考える動きが活発になります。

1998年に出版された「葉っぱのフレディーいのちの旅―」は個体の生死とそれを超えるいのちの存在を子供向けに作られたもの。

 

人生の終わりに備えるエンディングノートの習慣も広がっていきます。

「千の風になって」という歌が阪神淡路大震災の鎮魂の曲となっていますし、納棺師の映画「おくりびと」が人気映画となりアカデミー賞外国語映画賞を受賞しています。

 

これらの活動は、日本人が死について真剣に向き合い始めた故の活動といえるでしょう。

 

震災

1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災、2011年3月11日に起きた東日本大震災とその後の関連災害は死について考える流れを強くします。

死者、行方不明者数が約2万人という巨大な災害を経験することで、日本に住む人は常に天災の危険にさらされていることを認識するきっかけになりました。

 

そして、日本社会の基盤がぜい弱であり、人の生とは、じつは死と隣り合わせであることを、強く考えさせられたのです。

古来より良く知られていたはずのことを「想定外」として目を閉じて突き進むことに対する警告としてもとらえられました。

 

敗戦という喪失体験が生み出した躁的防衛が高度成長とともに終わり震災で完全になくなります。

そして、今は精神的にも、経済的にも抑うつ的な時代。

 

その慢性的な抑うつ状態のおかげで、やっと、生死の問題についてゆっくりと考えられる時代になったのでしょう。

 

日本人とスピリチュアル

世界では、人、特に子供が成長する側面として、身体的な成長、精神的な成長、社会的な成長、そして霊的な成長が求められます。

人の発達や健康をこの4つの次元から考えることは、イスラム圏、アフリカ諸国、欧米人にとって当たり前のこと。

 

その証拠に、1994年にWHOの健康の定義として霊的に健康であることが追記されることが検討されました。

しかしながら、日本では、他の3つに比べて霊的なものspiritualへのなじみが薄く、これにぴったりとあてはまる言葉もありません。

 

日本人がスピリチュアルな次元について関心がないとか感性を持たないということではないのですが、spiritusのような一神教的な「霊」の存在が理解しずらく、幽霊や冷媒といった違うものを想像してしまうのです。

spritualに相当する日本語は「厳粛」とか「おごそか」という表現。

 

神社やお寺に行って感じることができるこころが清められ澄み渡る感じです。

永続性や超越性へのあこがれ、善良さ・美しさに対する希求、人生の意味や目的などに関わるもの、という人もいます。

 

WHOによるスピリチュアルの定義は次のように定められています。

「スピリチュアル」とは、人間として生きることに関連した経験的一側面であり、身体感覚的な現象を超越して得た体験を表す言葉である。

多くの人々にとって、「生きていること」が持つスピリチュアルな側面には宗教的な因子が含まれているが、「スピリチュアル」は「宗教的」と同じ意味ではない。

 

スピリチュアルな因子は、身体的、心理的、社会的因子を包含した、人間の「生」の全体像を構成する一因子とみることができ、生きている意味や目的について関心や懸念と関わっている場合が多い。

WHO「がんの緩和ケアに関する専門委員会報告」(1983年)

 

スピリチュアル、霊的なものの定義は、死生観に関する様々な問題と深く関係しています。

自分はどこからきてどこへ行くのか」という問いは、身体や精神、社会の次元では答えようがありません。

 

日本の文化史は、スピリチュアルな性質のものに溢れています。

スピリチュアリティの重要性に関連する世界的でグローバルな流れを考えながら、固有の伝統的なスピリチュアリティを見ることが必要。

 

これから、あなた自身に合った死生観を作り上げていくこと

それが、あなたにとっても、日本人全体にとっても、必要なことではないでしょうか。

(関連記事:死生観の意味とは!生死観ではなく死生観であることには理由があった

 

まとめ

以上、「死生観とは何なのか。日本人の死生観の歴史とその真実の意味とは」についてお話してきました。

死やスピリチュアルについて、避け続けてきた日本人。

 

それがゆえに、死に直面する出来事に遭遇した時に、もろく崩壊する精神構造になっています。

死生観を作るのにはあなた自身のこころのうちを探し出し、知ることが必要。

 

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(関連記事:ヒプノセラピー(催眠療法)とは

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