こんにちは。
催眠を心理学で科学する、「催眠心理学」
ヒプノセラピー(催眠療法)のベレッツアです。
さて、ジェンダー・フリーが叫ばれて久しくなりますが、ある人に言わせると、ジェンダーフリーは、人間の退化だと言います。
また、ある人に言わせるとジェンダーフリーがあるべき理想の姿と言います。
どちらが正しいのか。実は、どちらも正しいのです。
その理由について、人格心理学の観点から、ジェンダーって何なのか、その意味と定義についてお話しします。
そして、性の意識に関して、現代のジェンダーの問題について考えてみましょう。
ジェンダーって何?その意味と定義とは!
ジェンダーとは社会的な性、または、心理的な性別のことを言います。
生物学的な性別は「ジェンダー」ではなく、「セックス」と呼ばれます。
ジェンダー自体、日本語になってしまっているので、元々の英語の意味を辿ってみると、
- 言語学における文法上の性のこと。
- 生物一般における生物学的性のこと。雌雄の別。
- 医学・心理学・性科学の分野における「性の自己意識・自己認知」のこと。性同一性。
- 社会科学の分野において、生物学的性に対する、「社会的・文化的に形成された性」のこと。男性性・女性性、男らしさ・女らしさ。
- 社会学者のイヴァン・イリイチの用語で、男女が相互に補完的分業をする本来的な人間関係のあり方。イリイチはその喪失を批判している。
- 電子工学・電気工学の分野におけるコネクターの嵌め合い形状(オスとメス)の区別のこと。プラグとジャック、雄ネジと雌ネジなど。
ということになるのですが、もっぱら日本語のジェンダーとして使われているのは、
- 文法的性
男―女といった言葉としての性別。英語なら、man-womanといったもの。 - 性同一性
ジェンダーアイデンティティーともいい、自分の性をどのように認識しているかということ。 - 社会的性
社会的に作られた性のこと。男らしさとか、女らしさなどのことです。
とのこと。
つまりジェンダーとは、生物学的な性はジェンダーには含まれず、生物学的な性(胸が膨らんでいる、性器による区別)は「セックス」と呼ばれるのですね。
ジェンダーフリーが性の意識に与える大きな影響
現代のジェンダーの問題、ジェンダーフリーとは、いったい何なのでしょうか。
実はジェンダーフリーの捉え方は、本当にまちまちで一貫性がないのです。
性別の呪縛からの解放だと言ったり、
性差をなくすことだと言ったり、
男女が平等であることだと言ったり。
では、最初に「ジェンダーフリー」と言い始めた人の見解を見てみましょう。
この方は、バーバラ・ヒューストンさんという方で、略歴は
1941年、カナダのスー・セント・マリー出身で、西オンタリオ大学Ph.D.(哲学)。西オンタリオ大学を経て、ニューハンプシャー大学教育学部教授。専門は教育哲学、フェミニズム理論、倫理学。日本では「ジェンダーフリー」という言葉の原典として誤読された経緯を持つ。著書多数。 |
ここの誤読というところがポイントです。
日本で、ジェンダーフリーという言葉が全盛になったころ、バーバラさんは、こんなことを言っています。
と言っています。(全文は文末に記載。)
途中に出てくるバイアスとは、心理学ではよく使われる言葉で思考のショートカットのこと。
山といえば川、男といえば力強い、女といえばかわいいといった、ステレオタイプ的思考のことを指します。
だから、バーバラさんは、性に対してはステレオタイプ的な考え方、つまり、偏見を持たないようにすることがいいことだと言っているのです。
このように前知識がない状態で性に関する意識や感覚で「ジェンダーフリー」をとらえると、「男も女もみな一緒。区別するのは罪悪なんだぁ」という感覚が強いのではないでしょうか。
なんとなく、ジェンダーフリーを提唱したバーバラさんの言っている事とニュアンスが違いますよね。
性を同一に見るという意識が強すぎて現在のジェンダーに関する問題が生まれてきていると考えることできるでしょう。
性の意識は、自分でそう思うこと、つまり、性同一性、が問題となります。
その性同一性、つまり自分が男であるか、女であるか、という性の意識はどうやって作られているのでしょうか。
この性同一性のジェンダーに関する問題は「人」がどのような経緯で、自分の考え方を作り上げるのか、その人の性格がなせその性格になったのかということが気になるところではないでしょうか。
言い換えると、その人の性同一性に関する認知、認識はどうやって作られるのでしょうか。
このジェンダーに関する問題は、「氏か育ちか」という考え方に波及します。
つまり、その人がそういう性格なのは、遺伝子的なものなのか、環境による影響がそうさせるのか、といった問題です。
この問題は正確に影響を与えるのは、人か状況かという論争というところから人-状況論争といわれ、長い間議論されてきた論点。
次に、そんな人ー状況論争を見てみましょう。
性同一性が作られる理論は人-状況論争にあり
人のジェンダーに関する性の意識の作られ方は、遺伝子的なものか、その人が育ってきた環境にあるのか。
ジェンダーの区別、つまり、性同一性には、大きく個人差があります。
男らしさ、女らしさ、といった社会的性といわれる区別は、それは、デジタル的な評価ではなく、どれだけどちらに近いか、というアナログ的評価です。
つまり、性格、「人格」に表されるものですね。
「人格」つまり、その人の性格や思考の癖は、その人個人の生まれつきのものなのか、それとも、環境が作り上げるものなのか、という論争が、1970~80年にかけて行われました。
それは、人-状況論争で議論された「氏か育ちか」という理論を理解するとわかりやすいでしょう。
この人-状況論争が起きるまでは、フロイトの力動論やユングの類型論とか、ビッグファイブに代表される特性論、などが主流。
だから、「人格」は個人の特性に基づいたもの、つまり、性格は遺伝子に組み込まれた生まれつき持って生まれたものという解釈が多くなされていました。
しかし、1950年ごろにアメリカの精神科医サリバンが「すべての精神疾患は人間関係の中で現出されている」として良い人間関係で生活を続けることが精神疾患を回復させると発表したのです。
どういうことかというと、精神病院に収容されている統合失調症の患者の8割を人間関係の改善によって、回復させたということ。
追試が不十分なため、サリバンの実験がたまたまだったのか、その病院、対象者がそのパターンに合致しただけなのか、そのあたりは現在は不明。
しかしながら、その統合失調症から回復したという成果の確認が行われていないにしても、現在でも治療が難しい統合失調症の患者の8割を完治させた実績は、目を見張るものですよね。
この事例は、個人の性格や考え方などの「人格」は環境によって変化させることができるということを示しています。
そして、現在では、「人格」を創り出すものは、遺伝子的に持って生まれた生得的な要因と環境によって創り出された要因の二つが相まって、強化されていくと考えることが主流となっています。
人の性格は、環境のせいでもあり、生まれつきのものでもある。
その人やその家族が原因で性の同一性が作られるわけでもないし、周りの環境が原因で自分の性の認識が作られるわけでもないということですね。
あなたのジェンダーを作ったのは?
さて、あなたの心の中は、誰にも見ることは出来ません。
「楽しい」と言葉で言っても、実はつまらなかったことってありますよね。
顔で笑っていても、心が泣いていることもあるでしょう。
あなた自身の心の中の世界はあなただけのものだから。
では、あなたの心の世界にあるジェンダーは、何が作り上げたのでしょうか。
もともと生まれつきで備わったもの?
それとも、いろんな出来事や経験を経て、作り上げられたもの?
この疑問に対して、アメリカの心理学者ケリーさんが面白いことを言っています。
これを、言い換えると、「その人を外部から見えるもので判断するべきではない。その人がある物に対してどのような意味づけをしているか、というところから判断するべきだ。」ということになる。
分かりやすく言い換えると、あなたの世界を作り上げたのはあなた自身である、ということになります。
ただし、ここで、自分で作ると言っても、他の人からの影響は免れません。
このようなあなたの世界を作り上げる過程は、他の人とのかかわりで作り上げられていきます。
直接誰かから言われたり、聞いたりしたら影響を受けるのは明らか。
ですが、本で見たり、うわさ話や、ネット上の情報、テレビやラジオ、あるいは、自然や宇宙など、他者からの影響も多い。
たとえば、赤信号で渡らないと自分で決めたとしましょう。
でも、赤信号で渡ってはいけないというのは誰かが決めたルール。だから、自分だけで決めたように感じても、実は他者の影響を受けていることになりますよね。
あなたが自分を「女」であると認識していても、それは、誰かが決めた「女」という型に沿っているというだけ。
誰かが決めたパターンに照らし合わせているにすぎません。
ジェンダーに関してのこの考え方がもっと進むと、自分の考え方、感じ方、あなたが自分自身としてとらえているものでさえも、他者、あるいは社会的に構成されたもの、と考えることができます。
もう少しわかりやすく説明すると、あなたがあなた自身を考える時、そこには必ず、他者や社会が存在しているということ。
他者との差異を認識できるからこそ、あなたがあるのです。
また、あなたは小さい時から名前を付けられ、親の指導方針のもとに育てられ、学校での先生、友人、先輩、後輩、それらから多くのことを学びあなた自身がどのような存在であるかを教えられながら成長していきます。
だから、私たちが成長して社会の中で暮らしていくということは、社会的に構成されたルールを取り入れていくということです。
あなたが、あなたらしさ、を手に入れた時でさえ、あなたの好みや考え、記憶などは、他者に提示し他者が了解した時に初めて意味を持つのです。
このように、「個人の意味世界は、社会的に作り上げられていく」という考え方を社会構成主義と言います。
そんな社会構成主義の観点から、男性と女性の性差を見ていきましょう。
男性と、女性の間の性差
性差とは、生物学的、社会的、心理的な性同一性を含めた性の差のこと。
良いとか悪いとかいうものではなく、あくまでも「男と女の違い」です。
この性差は、物理的なものと心理的な両面からあなたの中で作り上げられていくもの。
そして、あなたが、他の人と対比したり、同一化したりしながらあなた自身を作り上げていく過程で、性差というものは、あなたが認めても拒否しても暗黙の内に大きな要素になっています。
自分自身をどのような性として表現するか、または、他人をどのような性に帰属させるかは、あなた自身に大きく、強力な影響を与えます。
このことは、性同一性障害の人の苦しみを見れば、理解できるのではないでしょうか。
あなたは、女性、あるいは男性として生物学的な性としての生殖器官を持って生まれていますよね。
その生物学的な性は、あなた自身を女性または男性として、時にはそのどちらでもないものとして、あなた自身が考えるものがあるでしょう。
その時、感じている性(ジェンダー)と生物学的な性(セックス)が一致する場合とそうでない場合があります。
そしてその、一致する具合も100%合致していると感じることもあれば、「80%はそうなんだけど」というように、少しだけ反対側に傾いていることもある。
この、ジェンダーが形成されていく過程には様々な議論がなされているのですが、その一つに本質主義的な見方というものがあります。
例えば、
- 男女の認知や振る舞いの差は、そもそも脳の構造が違う
- 人間は、原始時代から男性が狩りに出て、女性は家やコミュニティを守るもの
- 女性が子供を産むのだから、女性が子供を育てるのも自然な成り行きだ
というような考え方。
しかしながら、これはとてもステレオタイプ的な視点であって、雄が子育ての中心を担う生物もいることから、100%正しいこととは言えません。(生き物界きっての10種のイクメン達>>こちら)
また、古来より女性が狩りや戦闘をする部族の存在も知られています。
最近では、軍隊でも、第一線における女性戦闘員も存在していますよね。(空自、戦闘機へ女性を登用>>こちら)
ジェンダーを考えていく際には、本質主義的な考えを素朴に主張するのではなく、ジェンダー差が社会的に構成されていく過程を、意識しなければならないのではないでしょうか。
ジェンダーが作られていく過程
さて、ジェンダーが社会的に作られていく過程には次の二つが考えられます。
まずは、男女それぞれの行動の特徴や性格の特性が、どのように社会的、歴史的に構成されるていくのかということ、
次に、ジェンダーはどのようにして個人が特性として持つようになるのかということです。
それぞれ、見ていきましょう。
社会的に作られていったジェンダー
それでは、社会的に作られていったジェンダー、性の意識を見てみましょう。
時は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命にさかのぼります。
産業革命以前は、農業中心であり、家庭で生産したものを町で売るという、比較的のんびりした生活が一般的だったので、人々の生活も穏やかでした。
ですが、産業革命により生産性が向上し、労働の場は家庭から分離し工場に移るようになります。
男性は外、主に工場労働に出かけ、商業市場も拡大し、鉄道を使って遠くに出張するということも増えていきました。
また、国民国家の成長とともに、軍隊も整備され、長期に生活基盤から離れたところに所属することになります。
一方、女性は、生活基盤である家庭を不在にするわけにはいかないので、そこに縛り付けられることになります。
こんな時代に発見された科学の理論が人々の考え方に大きな影響を与えることになりました。
その科学の理論とは、当時物理学で、エネルギー保存の法則が発見されたこと。とても多くの人々に大きなインパクトを与えました。
というのも、閉じられた空間では、エネルギーの量は決まっており、そのエネルギーは消費されるごとに減っていくというという考え方が広まったのです。
この考えは、人間一人の一生で使えるエネルギーは決まっているという考えにつながりました。
そして、人間の生命エネルギーの消費の多いものが「性的行為」とされ、できるだけエネルギーを無駄遣いしないことが生命にとって良いとされたのです。
その結果、自慰は厳しく禁止され、また、生殖以外の快楽のせいは激しく批判されるようになったのです。
性的欲求を身体的活動へ向けるための体操、「シュレーバー体操」が開発されたほどです。
話しはそれますが、この「シュレーバー体操」、榭中體操法図として、明治時代に日本に取り入れられ、
今でもよく行われているラジオ体操にもその面影が残っているんです。
さて、こんなにも、忌避された性的エネルギーの浪費ですが、それは表の世界の話で、人々の裏の世界では、かつてないほどの買売春が盛んになった時代。
本能を理性で抑えようとした結果、はけ口が必要になったと考えられます。
男性は、街角に出かけて性欲のはけ口になる対象の元へ行き、あるいはメイドをその対象としたのです。
しかしながら、このような理性に反する本能の行為は倫理的観点でも性的エネルギーの浪費の観点でも、罪悪感は消えません。
それどころか、より大きな罪悪感を生み出すことになりました。
その上、性病(梅毒)が広まり、その恐怖がいつも付きまとっていました。
その性欲を外に求めることで生まれる罪悪感のはけ口として、男性自身が自分に認めがたい性質を、女性の持つ性質として女性に投影したのです。
ここから、「男性らしさ」「女性らしさ」のステレオタイプが成長していくこととなりました。
このことがよくわかるのは、当時の服装です。
産業革命以前は男性も女性も同じように、装飾も色彩も華美であったのに対して、産業革命以降は男性はモノトーンで活動的な服装、女性は、より華やかで、装飾的で動きにくい服装となっています。
社会的に活躍し、感情を抑制し、軍隊的なしかめっ面といったような人物像が男性性の理想。
理想的な女性は家庭的、情緒的で、涙もろく、感情の抑制が効かないといった特性を持つものとされていったのです。
ジェンダーを個人が特性として持つようになっていく経緯とは。
個人がジェンダーの意識を持ち、育て上げていく過程をここでは、行動の強化という観点から説明していきます。
子供が、ジェンダーと合致した行動をとると親や周囲の大人から褒められます。
「男のだもんね」とか、「女の子らしくてかわいいね」などといったように、です。
また、それとは反対に、ジェンダーに反した行動をとると、叱責を受けます。
例えば、女の子が人形遊びをしていたら微笑ましいですが、男の子が同じことをしているのをあなたが見たらどうでしょうか。
しかめっ面をしたり、バカにしたり、怒ったり、怪訝な行動をとったりしてしまう。
たとえ、ここまで直接的な強化行動でなかったとしても、他の子供がそのような行動、(例えば、男の子がスカートをはいたり、女の子が殴る蹴るのけんかをする)をとった時のその周りの反応を見ると、自然と学習してしまいます。
ということを学習する、「代理強化」が生じるのです。
さらに、テレビやラジオ、映画や雑誌には、ジェンダー差に特化したイメージがあふれかえっています。
それを見ることによって、自分でも気付かないうちに、同じ行動、ジェンダーに合致した行動をとるようになっていくのです。
心理学におけるジェンダー研究
性差・ジェンダーに関する研究は、心理学の中でもかなり盛んな分野。
男性性、女性性という観点は、よく、力動論的な観点で用いられることがあります。
また、一種の性格特性として考えられ、男性性と女性性は対極の物として、また、直線状の両極として見られていました。
ですが、それでは、不十分だったのです。
サンドラ・ベムのアンドロジニー
ここで、直線状にある男性性と女性性という考え方に異を唱えたのが、サンドラ・ベムという心理学者。
彼女は、アンドロジニー(両性具有)という概念を提唱しました。
これは、男性性と女性性は本来別次元を構成する物であるという考え方です。
つまり、男性的でもあり女性的でもあるという状態も可能だということ。
ベム博士は、ベム性役割尺度という質問紙を開発し、男性性の次元と女性性の次元とには、相関性がないということを示しました。
この発見は十分に革新的だったのですが、今までのジェンダー役割のステレオタイプ的思考は覆りませんでした。
何が男性的で何が女性的であるかというのは、今までに培われ気付きあげられた男性イメージ、女性イメージに従っていることになる。
だから、それをカテゴリー化し、性別化するというものとの考え方にヒビは入らなかったのです。
しかしながら、この状況をベムさんが自分で打破することになります。
というのも、男性性と女性性は「文化的レンズ」であるという見解を提唱したから。
この文化的レンズという考え方は、「ジェンダーとは個人の性格の積み重ねではなく、文化的に個人に埋め込まれた枠組み、構造であり、個人の今までの経験に意味とつながり付加するための情動的/認知的構造である」ということ。
もう少しわかりやすく言うと、次のようになります。
ジェンダーには、ジェンダーというものがあるのでない。その社会・コミュニティが作り上げた枠組みがジェンダー。
ジェンダーとはその社会において特定の行動や態度・思考の特徴を、女性的であるとか、男性的であるとか割り振る枠組みであるという考え方です。
キャロライン・シェリフ
彼女は社会学者でありますが、ジェンダーを情報処理の構成理論として主張しています。
キャロライン・シェリフの言葉に、
とあります。
これは、ジェンダーは社会や個人が認識されるときに重視される認識の作業の枠組みである、ということです。
つまり、ジェンダーは社会的に構成され鵜物であるという考え方。
ジェンダーは決して永続的な人格特性ではないという考え方が主流になったと言えるでしょう。
まとめ
以上、「ジェンダーって何?その意味と定義とは!性の意識と現代のジェンダーの問題」ということでお話してきました。
現在、ジェンダーの心理的な構成に関する理論はここで述べたもの以外にも数多くあります。
例えば、ジェンダーは人間の持続的な内的性格ではなく、それが適切だと思えるような、相互行為に存在しているものとする構成主義的立場があります。
しかし、別の立場では、ジェンダーは生物学的あるいは遺伝子的に決定される性差であるとする本質主義的な考え方も根強いです。
また、ジェンダーは社会の集団を構成している一人一人が自分はこんな人間なんだと規定する際のカテゴリーであり、集団的なアイデンティとみなすこともあります。
現在の心理学において、ジェンダーの概念について理論は、あるにはあるのですが、それが良いのか悪いのか、まだ十分に確立されていません。
これはどういうことかというと、男女の性差に関する研究は多く行われているけれど、研究者の主観が多く入っているということ。
現在も脳の男女差を見たり、認知能力の性差を見たり、という形で、いつくつかの心理学的な構成概念の性差をみて男女の差に関する研究は多く行われているのです。
ですが、そのような研究は、男性と女性の差が他の指標より極端に強調されていたり、男性と女性の平均値のわずかな差に過ぎないものが、両者の集団の二分法的な特徴づけにすり替えられていたりしています。
現在の心理学では、ジェンダーというカテゴリー、そのものに関してまだまだ研究途上といえるでしょう。
心理学がまだ追い付いていない部分があるのがジェンダーなのです。
催眠療法を行っていた精神分析学の祖フロイトも性の重要性を説いています。
その弟子、ユングは、どちらかというとジェンダーを考慮しない立場をとりながらも、人間は生物として存在する以上、性というものを切り捨てるわけにはいかないと考えている。
もし仮に、性を全否定するなら、生命体としての未来はありません。
まだまだ、学問として確立していないジェンダーですが、踏み入れてはいけない禁忌の世界、クローズドな世界からネットによってオープンな世界に変わりつつある。
「ジェンダー」は誰もが通る道であり、正面から、あなたにぶつかってくる問題です。
このジェンダーを上手く乗りこなせることが、人生を楽しむコツになるのではないでしょうか。
ベレッツア 高橋
「ジェンダー・フリー」概念に関するコメント バーバラ・ヒューストン(翻訳:山口智美) 私の論文が議論される際に、「ジェンダー・フリー」という言葉が曖昧かつ多義的に使われているということを知りました。そこで、私がどのようにこの言葉を理解しているのかを明らかにしたいと思います。「ジェンダー・フリー」という言葉は、私が教育哲学会で行われたシンポジウムに参加した時に使ったものです。そのシンポジウムは、後にアン・ディラー、キャスリン・モーガン、マリアン・アイムとの共著として出版した『教育におけるジェンダー問題』The Gender Question in Education (Westview Press: Boulder, CO., 1996)という本に収録されています。 この「公教育はジェンダー・フリーであるべきか」と題したシンポジウムにおいて、キャスリン・モーガンと私はこの問題についてディベートを行いました。モーガンは、教育はジェンダー・フリーであるべきだという考え方を擁護する立場に立ちましたが、私は、教育についてジェンダー・フリーの方針を採用すべきではないという立場でした。私の立場は、ジェンダー・センシティブのアプローチを採用すべきだというものでした。 確かに、ジェンダー・バイアスをなくすという意味で「ジェンダー・フリー」を捉えるならば、私たちは皆、教育はジェンダー・フリーであるべきだと考えています。しかしながら、「ジェンダー・フリー」という言葉はジェンダーを解消したり、または組織的かつ意図的にジェンダーを無視するという別の意味も持っています。そのため、私は、ジェンダー・バイアス、または性差別をなくすために、故意に、また組織的にジェンダーを無視したり、ジェンダーを除去しようとする方針に対して、強く反対する立場に立ち議論したというわけです。 「ジェンダー・フリー」アプローチの問題点は以下の通りです。第一に、捉えにくいジェンダー・バイアスを見逃したり、時にはそれを強化してしまったりすることがあり、そのために教育を受ける女性にとって機会の平等が与えられない状況が続いてしまいます。 第二に、このような「ジェンダー・フリー」の解釈というのは、性の平等の理想を前もって仮定してしまうために、性の平等に関して中心的で重要な問題を最初から除外してしまうという欠点があります。これがどういうことを意味しているのか、さらに説明を続けます。 もし一般的にジェンダーを解消するとか、常に無視するなどの方針を立ててしまった場合、支配的な集団(この場合男性)を常に有利に扱い続けるような状況を作ってしまう可能性が高く、教育機会の平等を実現させるために必要なはずの試みを失敗させてしまいかねないということを、私は例を挙げながら示したのでした。基本的に、「ジェンダー・フリー」という方針をたてると、「この状況において機能している、ジェンダーに関わる差異は存在するのか?」とか、「この差異をどのように評価すべきなのか?」などといった疑問について、各々の状況に即して検討することができなくなってしまうのです。 私がここで最も強く主張したいのは、以下の点です。ある状況下でジェンダーが機能しているのか、どのように機能しているのか、そしてジェンダーに注意を払うべきなのか、それとも払うべきではないのか、性差別をなくすべく導入した方針はうまく働いているのか、などの問題がありますが、これらについて、私たちは抽象的なレベルにおいて答えを知ることはできないのです。このような問題に対しては、(「ジェンダー・フリー」アプロ-チのような)抽象的なレベルではなく、常に個々の具体的な状況に即して、どのようにジェンダーが機能しているか(すなわち、上で述べたような、性差別をなくすべく導入した方針がうまく機能しているかなどの問いについて)を検討しなくてはならないのです。 したがって、ジェンダー・バイアスをなくすために何を試みたとしても、私たちは常にジェンダー(という観点)に細心の注意を払わなくてはなりません。ジェンダーが関係するときにはそれを考慮にいれ、平等を達成するためにジェンダーを考慮にいれないことが必要であるなら、そうしなければならないのです。 要するに、私の主張は、私たちはジェンダーを無視したり、解消しよう(「ジェンダー・フリー」)とするのではなく、ジェンダーにより多くの注意を払うべきだというものです。この方針はジェーン・マーティンによって最初に紹介され、教育における「ジェンダー・センシティブ」アプローチと名付けられたものです。私は、これこそが、ジェンダー・バイアスがない教育制度や、一般社会を本当に目指すために圧倒的によい選択肢であると考えています。 |
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