精神分析学のジークムント・フロイト。精神分析・夢判断と催眠療法

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ジークムント・フロイトとは、精神分析学の祖であり、カール・グスタフ・ユングの師匠に当たります。

特にフロイトの出発点は夢判断にあり、ヒプノセラピーと同じ考え方で、無意識のうちに表現される夢は、自分の抑圧された考え方や感情が元になっているというとらえ方をしています。

 

精神分析は、フロイト自身の夢判断をきっかけによって、科学的な一分野として作り上げられました。

精神分析学と入ったどのようなものなのか、そして、その精神分析を創り出したジークムント・フロイトとはいったいどのような人だったのでしょうか。

 

精神分析学とは

精神分析学とはジークムント・フロイトが作り上げた心理療法を学問的に作り上げた人間の心に関する科学的な学問です。

西洋医学的に理解しづらい身体症状についての研究から人間の心について疎の身体との関係を含めて作られた理論。

 

フロイトが見つけた無意識とは、意識されていない意識とよく言われますが、この無意識の発見はフロイトの精神分析に大きな影響を与えます。

フロイトのいう無意識とは、意識で保持できない記憶や欲動を意識に上らせないように抑圧しておく場所。

 

この抑圧されたものは外に出ようとあがき、抑圧が強ければ、直接的ではない身体症状など他の症状として現れてくるとします。

この抑圧による心の葛藤を心の力動と表現し、フロイトは、抑圧する力と抑圧されているものの力のぶつかり合いが力動的な葛藤。

 

この無意識の中で行われている力動的な心の葛藤に気付くことが精神分析学の出発点となっています。

この力動的な心の葛藤に気付く方法を自由連想法というクライアントがこころの中に浮かんだことを自由に話すという手法で無意識の中へアプローチする方法が精神分析

 

精神分析では、自由連想という何でも心に浮かんだことを話す第一基本規則と禁欲規則という浮かんだ願望を実行に移してはいけない第二基本規則があります。

この2つの原則を守って面接構造を作り上げるとクライアントはセラピストに特別な感情が湧いてきます。この状態は抑圧が解け始め、押さえていたものが噴き出そうとしている状態。

 

この状態でその抑圧された欲動にクライアントが自ら気付き、そしてクライアント自身の意志で昇華していくことがこころの問題の解決につながっていくとするのが精神分析。

このことは、現代の心理療法にも活用されており、面接構造を厳格に守り通すことが求められていることや、セラピストがクライアントにアドバイスを与えてはいけないことにつながっています。

 

精神分析学の祖ジークムント・フロイト

精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは、ウイーンで医学を履修した神経学者でした。

とても探求心が旺盛で、研究に専念し追求していたフロイトが、神経学の世界にとどまらず、人間の心の暗闇、いわば深層心理、潜在意識に迫っていく「精神分析」という手法を編み出しました。

 

その手法を生み出していく過程はフロイト自身の生い立ちが関係しています。

特に、19世紀末のヨーロッパ、ウイーンの時代的、文化的な背景の中で成長した家庭が深く関連しているといえるでしょう。少し詳細に見ていくことにしましょう。

 

幼少期のフロイト

フロイトは1856年に旧オーストリア・ハンガリー帝国領モラヴィア地方にあるフライベルクにユダヤ商人の息子として生まれました。

この場所は現在のチェコ共和国にあたり、ドイツのフライベルクとは違う場所です。

 

フロイトの父親ヤコブが40歳の時、3人目の妻であるアマーリエが21歳で生まれた子供がジークムント・フロイト。

フロイトの表記、つづりはSigmund Freudと書きます。

 

フロイトが3歳になるころまでは安定した生活でしたが、その後の経済的不況とユダヤ人迫害が生活を圧迫し始めました

毛織物業を営んでいた父親の事業が失敗し、自然が豊かなモラヴィアを離れて破産同然の状態でオーストリアの首都、ウイーンに移り住みます。

 

フロイトが3歳の時のこの不安な体験はフロイトの障害初めての心の危機になりました。

社会的に不安定な情勢の中で頼もしいはずの父親像が崩れ去っていく幻滅体験は押さないフロイトの心に大きな影響を与えたのです。

 

この体験はフロイトが成人になった時のめまいなどの症状、フロイト自身の神経症につながっているといわれています。

その背景には、フロイト自身が見つけだした多くの人に共通する親に対する心の状態、エディプス・コンプレックスにも大きく影響しているといえるでしょう。

 

青年期のフロイト

そののちウイーンで学童期に入ったフロイトは慢性的に経済的困窮が続いていましたが、成績優秀で、学校において早くから才能を認められて秀才としての特別扱いを受けています。

父親の事業失敗から傾きかけているフロイト家の期待の星として家族の期待を一身に背負いながら17歳でウイーン大学医学部に入学しました。

 

フロイトは独特な感性は一般の医学生たちとは異なっており、医学部の学生として医学のみを履修するのではなく、考古学や心理学に大きな関心を持ち、文学などを通じて様々な種類の多くの本に触れた大学生活でした。

フロイトが一人の精神分析家、臨床医として生涯を閉じるのではなく、20世紀を代表する思想家としても評価されるようになった理由はここにあります。

 

フロイトの書いた本や論文を読めば、その思想が若いころから探求し続け自分のものとしていた幅広い教養と知識に基づいていることが読み取れるでしょう。

その書き表した書物の量だけでなく、書かれている内容の質を高く評価され、1930年にフロイトがドイツ語で書いた文章はゲーテ文学賞を獲得したほどの優れた執筆家としての側面もあります。

 

フロイトは本来、神経学者であり、脳と神経を生物学的に研究する神経学者です。

生理学研究室でダーウィンの進化論をヤツメウナギの脊髄神経節細胞の比較研究で実証する研究を行った実績により見つけ出した、神経細胞と神経突起がまとまった一単位を作り上げるという神経元理論を最初に発表した三人の一人に数えられています。

 

しかしながら、このような大きな功績もフロイト自身がユダヤ人であることと、経済的な理由のため、ウイーン大学に残ることができませんでした。

そのため、1891年に大学を離れてウイーン市内で開業医としての生活に入ることになります。

 

フロイトが精神分析を確立するまでのいきさつ

 

ひとりの開業医としてフロイトが臨床的な治療を進めるうち、人間の心を科学的に認識し治療に取り組む必要のあった神経症という病に次々と出会うことになりました。

この神経症に悩む患者たちに関わっていったフロイトは、その中で精神的な現象にも一定のメカニズムが働いていることに気付きます。

 

そこで、心の世界に科学的な法則を発見し、人間の精神領域を科学的に認識していくための技法を探し始めたのです。

この時に、リエボー・ベルネームの作った催眠の学校、ナンシースクールにも関係しており、精神分析の世界は催眠の原理も多く利用されています。フロイトが催眠療法、ヒプノセラピーを利用しなかったのは、コカインを愛用していたため、クライアントを催眠に導く催眠誘導がうまくいかなかったためといわれています。

 

さて、神経症患者の訴えてくることは西洋医学的なところで探っていてもその原因が見つからない症状ばかりです。

医学的には身体はとても健康で痛みが生じたり四肢が不自由になったりする理由がないのです。

 

  • なぜ、神経症患者は突然に歩けなくなるのか。
  • なぜ、不安発作が理由もなく突然に始まるのか。
  • なぜある強迫観念に憑りつかれるのか。
  • なぜある特有の匂いにとらわれて離れなくなるのか。

といったような症状が現れ、起こる原因が見あたらないのです。

 

このような患者の訴えや症状に関わっていきながら、フロイトは、精神的現象にも身体的現象と同じような自然法則、つまり心的な因果関係を探し続けます。

患者の行動、言い間違え、物忘れなどの失策行為や不可解な症状、意味不明で奇妙な夢を見ることの背景には、本人も気づかない潜在意識の世界、無意識の世界があることにフロイトは気付きます。

 

その無意識の心の動きを科学的な方法で把握することができるなら、心の言ついても診断と治療が身体症状と同じようにできるようになる。

そう確信してフロイトは、無意識の世界に焦点を向け「精神分析」の方法を確立しました。

 

フロイトの精神分析

1896年にフロイトは初めて精神分析という言葉を用います

精神分析家としてフロイトが最終的に目指していたものは、科学的な認識に基づいて自己の心と身体に関して洞察を得ることでした。

 

この内省的な自己を巡る洞察というものこそが、人は初めて無意識の世界にある欲動や情動に対するコントロールの方法、というものがフロイトの考え方。

このような観点があるので、フロイトは心的決定論という、意識よりも無意識が重要でありその人の言動を決定する存在であるとする考え方が精神分析学の中ではその幹として展開されています。

 

このフロイトによる無意識の世界の発見は地動説を発見したコペルニクスや進化論を唱えたダーウィンの発見にもあたるような大きな発見。

精神分析学にとどまらず臨床的な心理的なアプローチにおいて無意識の世界を理解せずに心の働きを理解することは到底かなわない。これほど大きな発見なのです。

 

ジークムント・フロイトのプライベート

フロイトはのちに妻となるマルタと4年以上もの間、婚約状態のまま過ごします

理由は経済的な問題など多くのことが原因であったとされますが、この婚約期間はとても長いと言えるのではないでしょうか。

 

このフロイトの婚約期間においてマルタに宛てて900通以上の手紙を書いて送っています

SNSの発達した現代と違い、封書によって手紙をやり取りする時代なので、マルタに対する愛情を含め、文字を書くことにも精通しているフロイトならではの行為かもしれません。

 

この婚約時代にフロイトは神経病理学のメッカ出会ったパリのサルペトリエールに留学し、解剖病理学の神経科医であり教授でもあるパーキンソン病の命名者ジャン・マルタン・シャルコーの下で催眠療法を学びます

そこで初めてヒステリーの研究に触れ、その症状における無意識の心理作用にフロイトは強烈なインパクトを受けました。

 

時期を同じくしてフロイトはウイーンで開業医として成功していた友人のブロイアーからも大きな影響を受けています

ブロイアーのもとに訪れたヒステリー患者O・アンナの症例は心理学でもとても有名な話であり、精神分析の発見のきっかけであり、源泉でもあるもの。

 

このように仲の良かったブロイアーとの関係もフロイトが主張することをブロイアーは受けいれず、次第に疎遠になっていきます。

このフロイトの主張とは、無意識に関して抑圧理論に基づいて自由連想法という治療法を用いること、そして、心的外傷になる体験に関しては、性的なものに注目するという性的病因説。

 

このフロイトが主張する理論の中でも性に関する理論は友人のブロイアーだけでなく、学界から痛烈な批判を浴び、さらにはウイーンの社会から強烈な非難を受けます。

しかし、フロイトはその非難に屈することなく自分の理論を確信し突き進んだたため、孤独な一人で進むことになりました。

 

この時代、19世紀末のウイーンではカトリック教会の力が強く性に関するタブー視が強烈に残っている世界。

芸術の領域ではグスタフ・クリムトやエゴン・シーレ、オスカル・ココシュカらの性に関するテーマも認められ始めたとはいえ、まだまだ性を表面化するには早すぎる時期だったのです。

 

そのため性的病因説を主張したフロイトは社会的に孤立せざるを得ない状況となりました。

この時代のフロイトを支えていたのは、ベルリンに住むヴィルヘルム・フリースという耳鼻科医。

 

精神分析という単語を使い始めた次の年から3年間の間にフリースに宛てた手紙は284通にもなります。

このフリースとの間で交わした手紙によるやり取りがフロイト自身が見た夢に関する自己分析へとつながっていきました

 

精神分析学の基礎である夢判断

精神分析学の基礎である夢判断は親友であるフリースを分析者に見立てて自分自身の分析に没頭することで確立していきます。

フロイトがフリースに宛てた手紙を利用した夢の分析、つまりフリース体験こそ、精神分析の本質的な手順と言えるでしょう。

 

この自己分析の過程で、フロイトは自分自身の神経症患者たちと同様に、幼児期の体験を思い出すことで分析していきました。

フロイト自身の夢の分析を通して精神分析に関する理論の中心になる概念であるエディプス・コンプレックスを自分の無意識の中に見つけ出します。

 

夢は無意識への王道である。

このフロイトの言葉が生まれた根源は、フロイト自身の夢を巡る自己分析の時に感じたこと、考えたことなのです。

 

1900年に刊行された夢判断というフロイト自身による著書を出発点として、次々と書物を刊行していくフロイトの最も華やかな時代がこの時期。

フロイトがその研究生活において患者の分析資料に加えて自分自身の自己分析の資料を利用して、人間の心の奥の無意識の世界の解明に時間と心使った時代でもあります。

 

この時期にフロイトは、無意識の世界に現実的な意識の世界と同じかそれ以上の価値があるということを見つけ出したのです。

数々のフロイトの著作物が世の中に送り出されていく中、フロイトの精神分析は学問として確立され、学者としてのフロイトが作り上げられていきます。

 

フロイトの精神分析が成立

このような中、フロイトの精神分析の考え方に同調し、共鳴する人々がウイーンだけでなく、チューリッヒやブダペスト、ロンドンやニューヨークからも集まってきます。

この時期にフロイトのもとに集まってきた人々はフロイトの精神分析に対する理解者や弟子となっていきました。

 

1910年には国際精神分析学協会が設立され、その初代会長がカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)

この時のフロイトは、以前学会から追放され学問的に孤立していた立場から抜け出すことができたのです。

 

協会ができたことにより国際的な交流も次第に増えていき、チューリッヒの精神科医、オイゲン・ブロイラーの精神分析病論に、フロイトの精神分析の考え方が大きく影響したといわれています。

なお、初代会長のユング、現存在分析の創始者であるルードヴィヒ・ビンスワンガーはその当時ブロイラーの助手として活躍しており、フロイトと親しい交流を持っていたようです。この時期がフロイトの学問的な交流の最高点だったのではないでしょうか。

 

その簿、間もなくフロイトは多くの仲間、特に頼りにしていた者たちが去っていくという苦悩を味わいます。

特に親密な感情を持ちこれからの精神分析の発展に大きな貢献をもたらしてくれる時代の後継者として期待していたユングとの別れはフロイトにも深刻な影響を与えました。この時、フロイトだけでなく、ユングも大きな精神的な痛手を受けており数年にわたって精神的な苦痛を味わっています。

 

さらに、この時期は第一次世界大戦がはじまった時期。この戦争という社会的な事実は西欧的知性と科学的合理精神こそ、人類の進歩と幸福への道につながるものと信じていたフロイトの精神に大きなダメージを与えます。

フロイトの信念を根底から覆すことになったこの事実は1930年に刊行された「文化への不満」の中の死への本能へとつながっていくことになりました。

 

生の本能であるエロスの営みとしての文化の進歩は、潜在的に死の本能であるタナトス、自己破壊力の高まりを生み出すことにつながります。

本来は生きるための手段であった人の自然に対する支配力が逆に人類の自己破壊を引き起こす危険性についてフロイトは警告しています。

 

社会情勢に対する分析的なフロイトの著作活動は思想や文化の領域にも大きな影響を与えていきました。

そして、一人の臨床医として出発したフロイトがこのようにして20世紀を代表する思想家になったのです。

 

フロイトの人生最後の時期

1923年66歳のフロイトは、上顎ガンと診断されます。この後フロイトは16年もの間33回もの手術を受けることになりました。

フロイトの晩年は壮絶な闘病生活。その中で、診療を受けながら執筆活動を続けるという強靭な精神力を持っているフロイト

 

痛み止めを飲んで頭がぼんやりするくらいなら、痛みのさなかで物を考えるほうがましだ。

このフロイトの強靭な精神力を表す言葉は、真実であり、少量のアスピリンの他はどんな鎮痛剤も飲んでいません。

 

このような強い精神力を持っているフロイトですが、第二次世界大戦という大きな社会的な事実が襲いかかります

1932年頃からナチスのユダヤ人迫害が熾烈になり、翌年にはフロイトと精神分析関係の書物はベルリンにおいて焼き捨てられるという焚書が行われます。

 

ドイツの精神療法学会では、ユダヤ人であるフロイトが見つけ出したエディプス・コンプレックスなど精神分析に使われる言葉の使用をすべて禁止したほど。

そんな中、フロイト救出の国際世論の高まりを受けナチスが占領したウイーンから家族とともにフロイトはロンドンへ亡命しました。

 

この間もフロイトの身体の中のガンは進行しており、身体は弱っていく上に、想像を絶する苦痛にさいなまれながらも執筆活動を続けました。

その時に書かれた精神分析の論文「終わりある分析と終わりなき分析」、「分析技法における構成の仕事」が伝えることは、今でも現役の精神分析に関する教科書です。

 

その他、「人間モーゼと一神教」では、宗教の限界を伝えており、宗教を超える人間の倫理性を作り上げる思想として精神分析があるとしています。

このように、フロイトはその人生の最後まで科学的な世界観からの人間の心の営みを探求し続けています。

 

1939年に83歳でその生涯を閉じるまで、精神分析という理論を高みに引き上げることに全力を注いだジークムント・フロイト

「波にもまれて、なお沈まず。」というフロイトが好きな言葉のとおり、苦難の人生を歩みながら作られた臨床的でありながらも科学的な心理学、精神分析学を作り上げたのです。

 

夢判断や精神分析と同じ無意識・潜在意識を扱うヒプノセラピー

フロイトの夢判断から始まった精神分析の理論は、科学的な根拠を求めながらも催眠療法の影響を大きく受けています。

無意識の世界を扱うフロイトの精神分析は自由連想法という手法によって無意識の世界に入り込みますが、その無意識の世界を伝えたのは、催眠療法の学校であるナンシースクールやシャルコーに教えてもらったヒプノセラピー

 

だから、フロイトの夢判断や精神分析の基礎的な理解は無意識的な存在の潜在意識を扱うヒプノセラピーと同じもの。

言い換えれば、ヒプノセラピーはフロイトの夢判断や精神分析学の生みの親がヒプノセラピーなのです。

 

フロイトの精神分析においては、クライアントとセラピストの間の守りを大切にしますが、ヒプノセラピーにおいてその観点はあまり重視されていません。

ですが、この観点は、現在のほとんどのサイコセラピー、心理療法にも使われている技法で、セラピーの枠組みを守ることが無意識の世界に入り込み、クライアントが持っている心の問題を解決するための方法です。

 

クライアントのわずかな変化をも見逃さないためには、その変化に気付ける環境を作り上げることが大切ですが、ヒプノセラピーでは、クライアント自身が自分の中の無意識の世界を探索し、表現し、おもてに引き出すのでそこまで厳格に枠組みを規定することに注意は払われません。

もし、心理療法としてヒプノセラピーを位置づけるならば、枠組みを規定することの大切さも理解しておくことも大切でしょう。

(関連記事:なぜユングやフロイトが提唱した無意識がヒプノセラピーに重要なのか

 

まとめ

以上、神戸ヒプノセラピー、催眠療法のベレッツアが「精神分析学の祖ジークムント・フロイト。精神分析・夢判断と催眠療法」をお伝えしました。

精神分析学の根源的な無意識に関するフロイトの理解はヒプノセラピーにその起源を持ちます。

 

精神分析学を学び、心理療法の原則を取り入れようと考えているなら、そのもとになったヒプノセラピーを理解することがフロイトの思想に近づくことになるでしょう。

ジークムント・フロイトの精神分析学は、無意識の世界をクライアントの言葉だけでなく非言語のコミュニケーションを通して理解していく手法。

 

精神分析の世界を知ることは、ヒプノセラピーの世界を科学的かつ理論的に理解する方法にもなりますし、精神分析の世界を理解するにはヒプノセラピーによる催眠状態、無意識の世界を理解することも大切なこと。

フロイトの精神分析における人の心に関する基本的な考え方、イドや自我、超自我、意識と前意識と無意識の世界を理解するには、ヒプノセラピーを知ることで大きな気付きを得ることができるでしょう。

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